富澤一誠-株式会社アイ・ティオフィス
富澤一誠氏(株式会社アイ・ティオフィス 代表取締役)
1951(昭和26)年4月、須坂市中島町生まれ。
井上小学校、墨坂中学校、長野高等学校を経て東京大学文科Ⅲ類に入学するが2か月で中退。
その後歌手を目指し歌謡学校に通うが挫折し、紆余曲折の後にジャパニーズ・ポップスを専門とする唯一無二の音楽評論家となる。
★富澤一誠の「俺が言う!」 http://tomisawaissei.blog72.fc2.com/
★エイジフリー・ミュージック http://www.universal-music.co.jp/otonaongaku/
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Q 青春時代は随分波乱万丈の人生だったそうですね?
A 高校生の頃から歌手になりたかったんですよ。それには上京しないといけないということで東大を目指していました。
Q え? 他にも方法はありそうですが、、、、。
A ま、そうなんですが、東京に行くために東大を目指したんです。だから入学(合格)さえすればOKという感じでした。2か月で大学を辞めて歌謡学校に通いましたけど、ピアノの生伴奏ではうまく歌えなかったんです。「俺はリズム音痴かもしれない」って悟って、これも3か月で辞めちゃいました。(笑)
そのころ作詞家のなかにし礼さんが売れていましてね。歌手は無理でもこれならできるかもしれないと、月刊平凡とか明星の唄本とかを参考にしながら演歌の歌詞を書いたりしていました。当時よく通っていた品川のスナックで音楽出版社の方と出会いまして、自分が書いた歌詞を見てもらったりしていました。71年でしたか、吉田拓郎の「今日までそして明日から」を聞いて、俺のことを歌っているのかと興味をもちまして、コンサートに行ったんです。そこで本格的にフォークというジャンルを知ることになったんです。「よし、フォーク調の歌詞を書こう!」ということになったんですが、「そんなものは売れないよ」と音楽出版社の人に言われて結局は断念することに。(笑)
それでも音楽は好きだったんで、歌手、作詞家は無理だったけど何かをしたいと、思い切って日本青年館でロックコンサートを主催したんですよ。ところが、これが大赤字になってしまって、最終的には肉体労働をして借金返済をすることになってしまいました。
もう、何をやってもダメな状態でした。ちょうど泉谷しげるや古井戸、小室等、RCサクセションなどが出始めたころだったかな。そんな頃、岡林信康が「俺らいちぬけた」という歌を発表して休養宣言をしたわけです。それはマズイんじゃないか?って思ったんですが、雑誌の評論を読んでも自分ではピンとくるものがなかった。プロの評論家はこんなことしか書けないのかと思いましたよ。そこで自分の気持ちを書いて「新譜ジャーナル」というフォーク専門誌に投稿したところ、編集長から手紙が来ましてね、評論を書いてみないかと。つまり認められたわけなんです。その頃、僕は20歳でしたが、それから新譜ジャーナルが休刊になるまで約20年間書き続けることになったというわけです。
Q その頃はまだ、フォークブームが始まる前なんじゃないですか?
A そうですね、吉田拓郎の「結婚しようよ」がその翌年くらいですから、まだまだ火が付き始めた頃だったと思います。評論を書くことになりましたが、どうせやるなら誰にも負けたくない、一番になろうと、音楽雑誌を買いまくって他人の評論も研究しました。当時は福田一郎さん、中村とうようさん、湯川れい子さんがいたんですが、実はフォーク専門の評論家はいなかった。書き始めて半年くらい経って吉田拓郎がブレイクし、フォークブームが始まったんです。井上陽水の「氷の世界」というアルバムが100万枚も売れる大ヒットとなりましたから相当なものですよ。
いまでは考えられませんが、その頃は同時に雑誌もブームでしたね。だから、署名原稿しか仕事はしないと決めて、雑誌、新聞以外はやらなくてもよかったんです。2年後にはすでに評論家として食える状況でしたよ。
Q ここ数年メセナホールでのフォークコンサートをプロデュースしていただいていますが。
A そう、実は東京に来てからは暫くは日本全体のことしか考えていなかったんですが、メセナホールのコンサートのお手伝いをするようになってふるさと須坂のことを真剣に考えるようになったというのが正直なところです。
実は高校3年の秋でしたか、勉強が大変で寝不足になり活字恐怖症で成績が落ちたことがありました。担任の北原久夫先生が心配して家まで来てくれたんですが、先生を村山駅まで送る途中で「歌手になるより、大学に入る方が楽だろう、あと半年だけ頑張れ!」と励ましてくれました。たしか中秋の名月が出ていたと思います。村山橋から百々川、そして中秋の名月という、まさにそれが僕の故郷の原風景なんですね。そして、このことは僕の原点でもあるんです。
Q 最近の活動について教えてください。
A 僕が「エイジフリー・ミュージック」と名付けたのですが、演歌や歌謡曲ともJ-POPとも違う大人の音楽がいま必要とされており、そしてブームとなっています。16社のレコード会社とともに〈エイジフリーミュージック~大人の音楽〉キャンペーンを仕掛けています。
実はこの発想の元は須坂でのメセナフォークコンサートなんですよ。メセナでの発想、イメージを形にしたものなんです。
Q へえ~、そうなんですか。これからもご活躍を期待しています。ところで、須坂の特に若い皆さんにメッセージはございますか?
A そうですね、これは自分が生きてきた道でもあるんですが、「こういうものがあったらいいなぁ。」と思うことがあると思います。その時には他力本願にならずに、自分でやること、やってみること、そんな行動力をもって欲しいと思います。ぜひ頑張ってください。
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静かな住宅街にある富澤さんの事務所。所狭しとCDや雑誌が並んでいる。聞いたところによるとこの事務所に入りきらない書籍が別荘に保管してあるという。同じように富澤さんの頭の中にもまだまだ保管されたままのアイデアが詰まっているんじゃないか、熱く語る富澤さんと話をしながら、そんな気がしてたまらなかった。
(取材2012.2.4)