竹内 誠-江戸東京博物館館長
竹内誠氏(江戸東京博物館 館長)
1933(昭和8)年10月、東京生まれ。
須坂市福島町生まれの父、千曲市生まれの母との間に生まれ、子どもの頃、夏休みには何度か須坂を訪れる。
1944(昭和19)年から千曲市(屋代駅前)に1年半の間、縁故疎開する。
★江戸東京博物館 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
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Q 子どもの頃は須坂に何度も来られたとのことですが、その頃の須坂の印象はいかがでしたか?
A 母の実家の屋代から長野電鉄の河東線に乗り、井上駅に降り立つと黄金色の田んぼが一面に広がっていて、豊かな土地だなぁと思いましたね。牧歌的なイメージは今でも思い出します。当時、福島にある父の実家では山羊を飼っていましてね、千曲川の土手に連れて行っては草を食べさせるのですが、小さな体の私にとっては山羊の力が強くて引きずられたりしました(笑)。戦時中のことですが、帰りにはお米や芋をリュック一杯に詰め込んで帰るのですが、それが重くて、井上駅までは遠く感じましたよ。
その井上駅を含め、よく通った河東線が廃線になってしまうのはちょっと寂しいですね。
Q 竹内先生はその後もずいぶん須坂(信州)とは縁が深いとお聞きしましたが。
A そうなんですよ。昭和42年~45年には信州大学の教育学部、人文学部で助教授をしていました。当時の教え子たちは今60~65歳になっていますから、ちょっと前には校長先生をしていた人たちも多かったんじゃないかな。親せきも長野市周辺にたくさんいますから、そういう意味でも信州には縁が深いと言えますね。今も、県立歴史博物館や須坂市立博物館の関係で講演に行ったりしますよ。今年も11月には福島公会堂に行く予定になっています。
そういう意味でも福島は第二のふるさとと言ってもいいかもしれませんね。
実は、福島をはじめとする須坂は歴史的にもいいものをもっているんですよ。たとえば福島宿は水陸の重要なポイントだったんですね。福島宿が起点であった大笹街道は中山道のいわばバイパスのような役目をしていましたから、飯山のお米を江戸に運ぶなど、いろいろな物や人が行き来する、その役割はとても重要なものだったんです。
つまりね、須坂の町もそうなんだけど、交通の要衝であったということは、異文化との交流があったということなんです。そこに住む人々には情報収集や発信力があったはずだということも言えます。須坂の人にはそのDNAが息づいているはず。是非それを活かして欲しいなぁと思います。
Q なるほど、、、。もっと自信をもって発信していく必要があるということですね。
A 私は今、江戸東京博物館の館長として、職員にいつも言うのは展示会の企画をする時には3つのT(ティー)を大切にしてということです。その3つは、タイムリー(Timely)、ターゲット(Target)、トップオブセールスポイント(Top of Sales point)です。
タイムリーな企画をターゲットを絞ってPRしていくことは説明するまでもないでしょう。で、最後のトップオブセールスポイントなんですが、これは「本邦初!」とかそういう目玉を作ることが必要だということです。そういうものがあればマスコミを利用して情報発信をすることもやり易くなりますよね。
たとえば東京などから観光客に来てもらうには、当然のことながら目的地としての魅力が必要です。須坂には田中本家博物館があり、須坂の町のひな祭りなど、その他にも見所、魅力はいろいろありますよね。ただし、あれもこれもではなく、須坂の売り物は多くても3つ以内に絞ったほうがいい。あまり多いと印象がうすれてしまいますからね。しかもそれにはトップオブセールスポイントが必要なのです。現代人か魅力的な歴史上の人物などとの縁を探すなど、地域の魅力を発掘してどこにも負けない目玉を作ることが必要です。そして近隣との連携も考えるといいと思います。
先ほども言いましたが、須坂には情報収集、そして発信力をもったDNAがあるはずです。ぜひとも頑張って欲しいと思っています。
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須坂の売り物を3つ以内にと言われると正直難しい気がする。しかし、あえて絞り込んで、どこにも負けないものにするということは確かに必要なことである。そして須坂人としてのDNAを活用すべきであると、、、、。何か勇気づけられた気がして両国をあとにした。
(取材2012.1.27)